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日々のニュース メモ帖

12 巻頭特集 人物 BEST 10 宮城まり子

宮城まり子 福祉事業家・歌手
ねむの木学園の子どもたちの絵を見て
♪ガード下の靴磨き の歌声を聞いてから考えてほしい。
 
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東京府東京市蒲田区(現:東京都大田区)に2人姉弟の姉として生まれ、幼くして母親と死別した。父親の仕事の関係で、小学校3年から大阪で育った[2]。小学校5年の時、父親が事業で失敗し、母親が病死した。そのため小学校卒業と同時に、弟と共に吉本興業に入り、歌謡曲を歌うようになった[3]。戦時中の1944年10月、宮城千鶴子の芸名で17歳で大阪花月劇場(吉本興業直営)にて初舞台を踏んだ[4]

その後、自らの一座を率いて九州を巡業して終戦を迎えた。戦後の1948年、父親、弟の八郎と上京し、浅草の舞台に立った。翌年、菊田一夫の推薦で日劇の舞台に主役として迎えられた。1950年2月 テイチクから「なやましブギ」でデビューし、ポリドールを経て、ビクター移籍第二弾『あんたほんとに凄いわね』が初ヒットになった。そして、1953年、レコードで歌った『毒消しゃいらんかね』が流行し、一躍歌手としてその名が知れ渡った。1955年には、後のレコード大賞作詞家宮川哲夫の手による『ガード下の靴みがき』も大ヒットした。

 

1968年肢体不自由児(身体障害者)・孤児拒食症(精神疾患者)などの救済・支援を行う日本初の民間(私立)社会福祉施設であるねむの木学園(入所者は10歳~70歳、職員数2人~最大180人)を1人だけで様々な苦労の末に3年かけて設立した。この頃より、タレント活動は事実上引退状態となった。

1974年には記録映画『ねむの木の詩』を製作・監督し、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル賞を受賞した。1976年には、『まんが世界昔ばなし』の声優として名古屋章とともに出演した。1977年には『ねむの木の詩がきこえる』を製作した1979年、ねむの木養護学校を設立した。1975年1981年に実施された近畿放送KBS京都)のテレビ番組『宮城まり子のチャリティーテレソン』を通して身体障害者の社会参加を訴えた。

芥川賞作家・吉行淳之介(妹は女優吉行和子)と交際し、彼の死まで事実婚(内縁の妻)(都内の互いの自宅で同居)の関係であった。また、同じく作家室生犀星にも可愛がられていた。

2011年2月、ねむの木学園元職員と音楽家朝比奈圭の2人が宮城まり子の銀行口座から現金約3100万円をだまし取ったとして、詐欺罪で逮捕された。朝比奈らは起訴され、9月、東京地裁(裁判所)からそれぞれ懲役2年、懲役4年6月の有罪判決を受けた[5]。ねむの木学園や宮城まり子の個人口座から計約5億円が引き出された(盗まれた)という[6]。2

2012年宮城まり子と懇意の仲であると思われる美智子皇后の夫・明仁天皇から、瑞宝小綬章(旧勲四等)を受章した。