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11 巻頭特集 人物 BEST 10 沢田美喜

沢田美喜さん。戦後混乱期に混血孤児院設立。

私は日本経済新聞の「私の履歴書」で知りました。「終戦直後の超満員電車で棚から新聞紙の包みが落ちてきた、中には混血児の赤ちゃんの死体が・・・」

その後 それ以上には調べていません。

ネット上の産経新聞の記述を引用します。

 

 

 

 戦後の混乱期だった昭和23年2月、混血児の孤児院「エリザベス・サンダース・ホーム」(神奈川県大磯町)を創立した沢田美喜。当時の日本は現在よりも外国人への偏見が根強かったが、「混血児たちを救うのが自分の使命」と揺るがず、約2千人の子供を社会に送り出す。55年に78歳で亡くなって今年5月、40年となった。

 色あせた写真がある。沢田とともに写る子供たちは、よくいる日本人と異なる面立ちだ。敗戦後、日本に進駐してきた連合国軍の軍人と日本人女性の間に多くの子供が生まれた。敗戦直後の日本で育てていくのは難しく、捨てられて命を落とす子供もいた。27年に日本が主権を回復し、進駐軍が去った後も、在日米軍の兵士らとの間に生まれたとみられる混血児は少なくない。

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 そんな時代に混血児を引き取った沢田。「聖母」を連想させるが、ホームの子供たちの印象はちょっと違う。

 怖かったね。朝、コツコツコツとハイヒールの音がすると、「ママちゃまが来るぞ」ってね。どんなにワイワイしていても、みんな固まるんですよ

 黒人の父と日本人の母の間に生まれ、生後2カ月だった昭和31年春、ホームに預けられた森博(64)は、アルバムを手に笑う。

 森をはじめ、やんちゃ盛りだった子供たち。悪さをすれば宿舎にいる保母に叱られ、それでも言うことを聞かなければ、沢田が執務を行っていた母屋へ行くのが決まりだった。


 母屋に入ってふすまが開いたら、ビンタ一発。大きな指輪をしているから痛いのなんのって。でも叱られるのも分け隔てなかったね

 そんな森はホームの小学校卒業式で、沢田から卒業証書とともに、おねしょを克服したとして「よくがんばったで賞」をもらった思い出もある。

 子供が100人はいたかな。でも、ママちゃまはどの子がどういう性格でどうだというのを、見ていないようで知ってるんだよ

 日本人とは異なる顔立ちや肌の色。16歳でホームを卒業し、社会へ出てからは周囲の視線や露骨な態度を感じることも度々あった。それでも屈折することなく日本人として生きてきた。

 あそこで育ったから今があるとみんな自覚している。僕のような黒人も、白人もいたけど、みんな同じ釜の飯を食った仲間。だれかに差別されているということを意識せずに育ててもらった

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 沢田を唯一の母と慕う、岡村正男(58)も同じ気持ちだ。


 へその緒が付いた状態でホームに預けられた岡村。約10年前、役所から届いた死亡通知で初めて実の母親の存在を知った。それまでも探すことはできただろうが、あえてしなかったのは、沢田の存在があった。

 普通施設って子供を預かるところでしょ。ところがママちゃまは預かりものではなく自分の子として育てた。だから、僕のお母さんはママちゃまでいいと思っているんだ

 岡村も沢田とのエピソードには事欠かない。授業にもろくに出席せず、校舎の外で遊んでばかりだった小学6年のころ。

 「あんた全然授業も受けてないから、ママちゃまが教える」。その日から半年間ほど、沢田が仕事を終えてから、午前0時ごろまで母と子の勉強会は続いた。

 「今日は帰りが遅くなる」と聞いたら、うれしかったよ。厳しさもあったし、うっとうしさを感じることもあったね

 毎朝、スーツにハイヒール姿で黒塗りの車に乗り込み、ホーム運営の金策などのために奔走していた沢田。普段はホームの保母ら職員が直接世話にあたったが、子供たちの脳裏に深く刻まれているのは、厳しくとも信頼できる存在だったママちゃまの姿だ。


 沢田の訃報に接した際には、仕事が手につかなくなるほど動揺した岡村。還暦を間近にした大の男は、いまだに母を恋い慕う。

 鳥の親は巣を何往復もするでしょ。ママちゃまは、そういうイメージ。年がら年中出かけていても、餌を運んできてくれる。とにかくよく働く人だったし、えこひいきもなかった。「僕のお母さん」という言い方じゃなくて、ママちゃまは「みんなのお母さん」なんだよ

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 エリザベス・サンダース・ホームを開設し、進駐軍兵士らと日本人女性との間に生まれた混血孤児を救済した沢田は、三菱財閥を興した岩崎弥太郎の孫だった。大財閥の令嬢だった彼女を駆り立てたものとは何だったのか。

 調べれば調べるほど、『慈愛の母』という人物像では描き切れない、スケールの大きさにどんどんひかれていった

 「GHQと戦った女 沢田美喜」の著作がある作家でジャーナリストの青木冨貴子(72)は語る。


 執筆のため膨大な資料をひもといていくうちにたどり着いたのは、幕末・明治の動乱期に弥太郎が台湾出兵西南戦争による海運事業で一代で巨万の富を築き上げた、三菱財閥・岩崎家の壮大さだった。

 岩崎家で待望の女児だった沢田は、50人もの使用人にかしずかれながら、有り余るほどの祝福と愛情を注がれた。

 だからこそ、愛情を振り分けたいと思ったのではないか。生まれたときの環境が、その後の彼女の揺るぎない自信と勇気につながったのだろう

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 戦後に日本の初代国連大使を務めた外交官の沢田廉三と結婚。海を渡ってからも、岩崎家の財力を後ろ盾に、持ち前の奔放さ、何事にも臆さない性格で次々と社交界の著名人との人脈を築いていく。とりわけ、影響を受けたのが、友人の一人で伝説的ダンサー、ジョセフィン・ベーカー(1906~75年)だった。

 黒人の血を引くベーカーは、人種差別と貧困の中で育ち、パリでレビューのスターとなる一方、レジスタンス運動に参加。第二次大戦後は人種の違う12人の子供を養子に迎えた。権力と偏見や差別に屈しない姿勢は、沢田のその後の人生に深い影響を与えた。青木は著書の中でこう推察する。


 《ベーカーとの出会いが、ホーム開設への道筋をつけたといっても過言ではない》

 海外で築いた人脈と度胸は戦後の占領期でも発揮された。かねて親交があった連合国軍総司令部(GHQ)将校らがホーム創設の協力者になった。一方、ホームを作るため、GHQが進めた財閥解体で政府に財産税として物納された岩崎家の別荘を、GHQに掛け合って買い戻した。開所後はミルクを買うために私財をなげうち、混血児の存在を疎ましく思う進駐軍側の圧力にも屈しなかった。

 戦争がもたらす富で財閥となった岩崎家。だが戦争は数多くの混血孤児を生んだ。

 ホーム創設は沢田にとっての「戦争の後始末」だった。三菱の富の裏にあった闇を彼女が感じなかったはずはない

 貧困とは無縁の財閥の令嬢が混血のみなしごを育てる-。一見理解しがたい行動の根底には「罪悪感」があったのかもしれない、と青木は感じている。

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 沢田を母と慕う岡村は、玄関で三つ指をついて来訪者を迎える沢田の姿を覚えている。来訪者から寄付を受けると、沢田は再び頭を下げた。


 それまで、だれかに頭を下げるなんてやる必要もなかった人だった。それでも、自分が正しいことをやっていると思ったら絶対に引かず、自分の信念のためなら頭を下げられる。ママちゃまは、そういう人なんだよ

 幼少期の沢田は裁縫やままごとよりも、柔道や弓道にいそしむ一面もあり、祖父にちなんで「女弥太郎」の異名を授けられた。

 今でも「母の日」になると、毎年ホームを訪ねる森はこう感謝する。

 この子たちを救わないといけない。私ならそれができると思ったのかもしれない。それが岩崎家という特別な家庭で育ったからなのか、外交官夫人としての経験からくるものなのかはわからない。ただ、混血児ということがトラウマになることもなく、中学卒業まで育ててくれた。ホームがおれの実家なんだよ。そして厳しいママちゃまは、母親というより父親だった

 大磯町の岩崎家別荘跡にたたずむホーム。木々で覆われた約3万平方メートルの広大な敷地には、子供が過ごす宿舎や小中学校が併設されている。沢田の没後40年を迎えたいま、虐待を受けるなどした「措置児童」が大半を占めるようになった。沢田を知る人物も多くはない。それでも、沢田の残した深い愛は、社会の影が生み出す弱き者へと手を差し伸べ続けている。


 沢田美喜(さわだ・みき) 明治34年、東京生まれ。三菱財閥創業者、岩崎弥太郎の孫。20歳でクリスチャンだった外交官の沢田廉三と結婚。外交官夫人として各国をめぐる一方、クリスチャンとしての信仰を深め、英国では孤児院でボランティアとして奉仕活動を行った。敗戦後の昭和23年、神奈川県大磯町に混血孤児のための孤児院「エリザベス・サンダース・ホーム」を創立。55年5月、旅行先のスペインで死去した。

=敬称略

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